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了解しました

 投稿者:臨夏メール  投稿日:2010年 5月24日(月)02時19分31秒
編集済
  経済学関連のこと、理解致しました。

>規定的なのは「市民社会の解剖学」だ

今更に、頼もしい感じがします(笑
「マル経」て、今でも可能なんですかね?
(高望みさんが、「マル経」を続けてはるとしたら、不見識すみません)

それとは文脈を変えて、わたしはマルクス経済学とは、
やはりヘーゲル以来の「祭壇の批判」から「かまどの批判」に移った第一弾、と思えます。
つまり、その「かまど」は、お財布に限らないわけで、
マルクスの企みを継ぐ為には、社会史なんかをやっていったらええのかな、と考えてます。

欧米では、マル経は、社会学で扱われることが多いと聞きますが、わたしにも、それが妥当ではないか、と思えます。


高望みさん、北関東でしたか、今回は残念ながら関東には行けません。
また来年、改めて関東に参ったさい、お目もじ賜りたく存じます。


日本。端から、見てて取り分け感じるのは、
ネット右翼とか、ザイトクとか、「こいつら本気か?」という本気の懸念と、
日本人て、ここまで低レベルやったかな?という驚きです。

なるほど、歴史的に人格が崩壊していってるなら、むべなるかな。
しかし、マルクスその他の予測、
というかそれこそ社会学で、こんな崩壊のテーマの研究なんて、ありましたか?

怖いけど、これは取り組まんとあかん事ですね。
旧石器やら天皇制史源期まで落ちてしもたら溜りません、、、

それでは、お会いする日まで、お元気で!
ご研究の更なる深化を祈って居りますww
 
 

>経済と外部

 投稿者:高望み  投稿日:2010年 5月23日(日)10時53分42秒
編集済
  以前のやり取りというのは心当たりはありませんが、すでにそういうやり取りがあったのなら繰り返す必要はないでしょう。でも、私は法学部から経済学研究科に転進したぐらいで、やはり、規定的なのは「市民社会の解剖学」だという感性の持ち主のはずなんですがね。「人はパンのみにて生くるにあらず」、されど、「パンなしにて生くる能わず」ですから。

>「文化にくらべて、経済のほうがはるかに複雑なものであるから~」

小説なら誰でも一応読むことはできますが、経済学はそれなりに素養を積まないとまったく理解できないという程度の話としてならそうでしょうね。

ところで私が住んでいるのは北関東です。こちらに来ることがあれば是非。

  *  *  *
今の日本社会の危機的様相は、人間のパーソナリティー構造の共同主観的存立構造そのものの崩壊に由来しているといわざるをえません。景気の落ち込みはどこかで底を打つものですが、人間という社会的動物の社会的人格性の崩壊に原因があるとすれば、旧石器時代の水準まで行かないと、原理論的には下げ止まらないということになります。

現実には、さすがにそこまでは行かないかもしれませんが、ともかく深く深く沈降し続けることだけは如何ともしようがなさそうです。少なくとも、そのことは、日本列島における天皇制=「日本国」の始原期にまで、いったん解体的に遡行することを余儀なくされることなくしては、下げ止まりの契機を見いだすことはできないであろう段階に、明瞭に立ち至ったということではないでしょうか。

かつて戦国時代の荒廃の果てに豊臣秀吉は天皇制を再発見したかもしれませんが、近代文明とグローバル化と男系皇族がほぼ途絶しつつある時代に、再び、そのような閉じた幻想の回路で「日本社会的動物」の共同主観的アイデンティティが再構築されるなどということを想定することは不可能です。
 

経済と外部

 投稿者:臨夏メール  投稿日:2010年 5月18日(火)00時49分56秒
  お久しぶりです、臨夏@台北です。

いま、『段階論の研究』を、二編目通読中です。
第七章:古典的帝国主義のなかの、宇野による金融資本理解、のとこら辺まで来ました。

それで、シトワイヤンやシヴィル革命などの言葉の意味のずれ方などのことを思い起こしました。
これについては、多分この板でも、高望みさん書いてはりましたよね。

わたしなど単細胞は、図式よろしく、「近代=資本主義!」とか思てしまいがちで、
やはり歴史は丁寧にせんとあかんのう、思いました。
経済一元論でものは捉えられず、また経済が自律してるものでもなく、
政治や社会史などの外部が複合的に関係したものが「近代」である、と今では思てます。
これは、あらゆる歴史学に当てはまることですね。

で、数ヶ月か前ごろ、また多分この板で、わたしが
「文化・政治より、経済のほうが大きい」みたいな内容のこというたら、
高望みさんは、「そんなことまで、認識を共有できてないのですか!」
と言うてはりました。

その発言については、いまは理解できます。
ただ、わたしの発言の元ネタは、表によるもので、
表はどこか忘れましたが情況論文で、

「小林秀雄は、『アシルと亀の子』で「言葉のほうが商品より複雑で深いのは言うまでもない。
というてたが、ジェイムソンは、「文化にくらべて、経済のほうがはるかに複雑なものであるから~」と書いていた」

と抜き書きしてました。↑上のは、うろ覚えで書いたものです。

この辺、理屈が混乱してしまいます。
論点を定めることからして困難な大問題なんで、即答できることではないと思いますが、
もし、上のわたしの抜き書きで、なにか思うようなことでもあれば、
ヒントなどくださいませんでしょうか。
兄さん自身はどないお考えですか。

お忙しいところ、ひさびさに現れ、教えてくんで申し訳ありません。


#高望みさんは、どこに住んでんはりましたかね?関西大学ではありませんでしたか(全然違うかな(笑))、
わたし、今度来月の6月8日~6月18日まで一時帰日しますんで、
もし場所と時間が合うたら、どっかでいっしょに珈琲でもご一緒したいのですが、どうでしょうか。

因にわたしは今回金欠で、関東方面も行きたいのは山々なんですが、近畿に留まりそうです。
しかも、人と酒食を共にすることすら能わず、部屋で電気釜で飯炊いて、
外では珈琲しばく、というくらいしかできません。

随分勝手に言うておりますが、ご面倒でなければ、是非よろしくお願いします。


そうそう、最近は、勤めてる日本人子弟の学習塾で、
台北の日本人学生の父兄向けの、台湾史講座をやることになりました。
それで、80年代以降の、台湾のハイテク産業の歴史を調べているのですが、まあ、えらいおもろいもんですねえ~。
 

2010年アカルイ未来

 投稿者:高望み  投稿日:2010年 3月18日(木)02時24分2秒
編集済
  この国では、21世紀に入っていつの頃からか、「一部メディア」の報道姿勢は一貫したものとなっている。

マグロは確かに回転寿司などでも日常的に口に出来るようになったが、クロマグロ(本マグロ)となると、マスコミのような高額所得者でもなければ滅多に注文する蛮勇を奮い起こせるものではない。
マグロ輸入量のわずか5%にすぎないという、つまり、5%の高額所得者が口にするに過ぎないクロマグロ(本マグロ)のために、公共の媒体を占拠して松岡洋右(あべチャンの大叔父)ばりの国際緊張激化路線を煽り立てる「一部メディア」の精神構造はなかなか尋常一様のものではない。

そのようなたぐいの報道洪水--専門家が口を揃える所得税増税を黙殺しての消費税のみの増税論議、普通の知性があれば誰でもものをいうのをためらわざるをえないような検察暴走、朝青龍に仮託したアジア人種差別--にいともたやすく騙され続ける「一部国民」(主として団塊世代以上の高齢層)が多数有権者であり続けるこの国の「民主主義」が行き着く先は、難しく考えなければ明瞭にわかることである。

死んだ魚のような目をして、ニュース番組が民主党はマニフェストを実行していないといえばそれを鵜呑みに鸚鵡返しにし、ワイドショーが民主党のマニフェストなんかに投票したわけではないのだから公約を変えてしまえというとそれを鵜呑みにして鸚鵡返しにする。安手の近未来SFマンガのようなこの現実が、”輝かしき21世紀”の現実の姿だったとは。。。

簡単に考えて自明の理でわかりきってしまったこの国の行き着く先をなんとか変えるためには、簡単に考えただけではとても歯が立ちそうにない。
幸か不幸か、多くの行動が無意味で考えるしかない時代であればこそ、虚空の場所で難しく考え続けることだけが可能性でもあり現実性でもあるのではないか。
これはシニシズムでもあり希望への自己強制でもあるつもりのことである。
 

2009年訃報の旅

 投稿者:高望み  投稿日:2009年12月31日(木)00時15分34秒
編集済
  2009年は大往生の著名人が多かった年であった。ウィキペディア「訃報 2009年」の項目で一覧してみると、

4月18日 - 大内力、経済学者、東京大学元教授(* 1918年)
7月5日 - 土居健郎、精神医学者、元東京大学教授・国立精神衛生研究所所長(* 1920年)
7月8日 - 川喜田二郎、文化人類学者、KJ法考案者(* 1920年)
10月30日? - クロード・レヴィ=ストロース、フランスの人類学者、アカデミー・フランセーズ席次29(* 1908年)
12月13日 - ポール・サミュエルソン、アメリカ合衆国の近代経済学者、ノーベル経済学賞受賞者(* 1915年)

と、高齢の碩学の訃報が印象的である。

このうち、サミュエルソンはいわずと知れた近代経済学の巨匠であるが、近代経済学を数理経済学化して、それまでのメンガー、マーシャル、ケインズ、ハイエクらの理論が古典学派のスミス、リカード、マルクス、宇野と同じ土俵で経済学として議論できていたものが、まったく異次元の数秘カルトのようになっていくのに一大貢献をした天才的学者である。

レヴィ=ストロースもいわずと知れた文化人類学の巨匠であるが、構造主義という数理科学コンプレックスそのもののような、それでいて近代経済学と違ってさっぱり数理化の要点のわからぬ雰囲気的「現代思想」の先駆けをなした天才的学者である。

この両巨匠の他界が、閉塞しきった学術・思想に新しい胎動が萌しつつあることの象徴であることを願望したい。

大内力は、言わないと忘れられそうだが宇野学派の巨匠であり、東大紛争の時期に経済学部長事務取扱の立場にあった人物だが、当時、労農派マルクス主義の人脈が強かった経済学部が東大の諸学部の権威主義包囲網の中でいかに孤立していたか、といったあまり知られていない回顧談が『埋火―大内力回顧録』生活経済政策研究所 (2004/3)にはある。

他方、日本の芸能界でも、
11月10日 - 森繁久彌、俳優、コメディアン(* 1913年)
11月16日 - 水の江瀧子、日本の元女優、映画プロデューサー、司会者(* 1915年)
というように、男女の両巨頭が手をつなぐように他界していったのがなんとも不思議である。

個人的には、父親が10月7日に81歳で他界したが、その二週間余り後の10月24日に伯母つまり父親の姉が88歳で他界したこともあり、どうも実際そういうことはあるのだなあと思った。

今年は他に、
1月28日 - 降旗節雄、経済学者、帝京大学名誉教授(* 1930年)
5月19日 - 太田竜、革命思想家・評論家(* 1930年)
7月9日 - 平岡正明、評論家(* 1941年)
といった、ある種の分野で強烈な印象を残した顔ぶれも他界している。

もちろん世界的、世間的には、
6月25日 - マイケル・ジャクソン、アメリカ合衆国の歌手、ダンサー(*1958年)
が圧倒的にインパクトがあったわけで、どういうわけか日本でも十大ニュースのランキングで政権交代よりも上位にきているほどである。しかし、個人的にはまったく縁がなくさっぱりピンとこない。むしろ、同日に訃報が流れて掻き消された感のある、
6月25日 - ファラ・フォーセット、アメリカ合衆国の映画女優(* 1947年)
のほうが、高校時代に「チャーリーズ・エンジェルス」などで一世を風靡していたので印象が強かったというのが率直なところである。

年間の訃報を一覧で振り返ってみると、ほかにもこんな人も今年亡くなっていたのかと思う方々はあまたあるわけであるが、中でも、
4月9日 - 黒沢明、作詞家、元ロス・プリモスリーダー(*1934年)
とあったのは感慨深かった。こちらの黒沢明というのは、不朽の名作(?)「たそがれのブント」の元歌「たそがれの銀座」の歌い手である。

ご冥福をお祈りします。
 

小沢一郎と憲法(説明不足部分を補正)

 投稿者:高望み  投稿日:2009年12月18日(金)05時24分0秒
編集済
  今のところの鳩山民主党政権は、一部メディアと「野党自民党」(笑)の空回りした批判や亀井静香大臣の悪のり気味のパフォーマンスにもかかわらず想定外のことは特段ない。強いていえば、鳩山首相の「憎みきれないろくでなし」ぶりぐらいであろう。
  傷つけ合うのが嫌いだからと
  ずるずるみんなをひきずって
  最後にあなたはどうするつもり♪
たしかに、トップがあんな調子では下のもの、周りのもの、交渉相手側みんなが振り回されて怒り出すのも当然だが、案外あれも北朝鮮の金正日流の外交手法に学んでいるのかもしれない。

そんな中で、目から鱗だったのが小沢一郎・民主党幹事長による記者会見であった。大政治家としてはいささか大人げなげなスタイルながら、そこで披瀝された日本国憲法の天皇条項に関する講義は目から鱗だった。

もともと自分は法学的思考回路が苦手で、日本国憲法を読み込んだことなどなかったので、なんとなく「戦後憲法では象徴天皇は政治に関与できず、「国事行為」にしか関与してはいけないことになっている」という風に思い込んできた。それゆえ、ニュースでの小沢発言には、当初これは宮内庁長官のほうが正論だろうという違和感をもった。大方の新聞論調もそういう方向だったのではないか。

しかし、改めて憲法の条文を読んでみると、確かに小沢幹事長のいうとおりである。
実際のところは第一章天皇にはどのようなことが書かれていたのであろうか。そのニュアンスをはっきりさせるコトバをカタカナ等で補いながら読み返すと、次のように書いてある。

<天皇は、日本国の象徴デアルニスギズ日本国民統合の象徴ニスギナイノであつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基くモノトサレタ。>第一条【天皇の地位・国民主権】
<天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認ツマリハ統制下ニアルコトを必要とし、内閣が、国民ニ対シテその責任を負ふ。>第三条【天皇の国事行為と内閣の責任】
<天皇は、この憲法の定める国事に関する行為--ツマリ政治行為ノミ--を行ひウルノデアッテ、国政に関する権能を有しないトイフカ剥奪サレ禁止サレル。>第四条1【天皇の権能の限界】

すなわち、この憲法条文が規定しているのは、天皇が関与してよいのは「この憲法の定める国事に関する行為のみ」だということである。ここでは、「国事行為」と政治とはべつのことではない。政治=国事行為である。考えてみれば「国事犯」といえば「政治犯」なのだから、天皇の国事行為といっても政治行為にほかならない。

それがいつの間にか、「国事行為」は政治行為とは別のものだとされてしまっていた。これは、日本国憲法の直訳文体に独特のわかりにくさによっている。「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」という条文が、国事行為には関われるが国政=政治には関われないというように読めてしまうからである。

この部分は公布時に付帯された政府公式の英文表記によると、
"The Emperor shall perform only such acts in matters of state as are provided for in this Constitution and he shall not have powers related to government. "
となっている。これは直訳すると、

「天皇は、この憲法に規定される国家的な諸事項matters of stateにおける行為のみを遂行するものとされる。かつ、天皇は統治governmentに関与する権力をもたないものとされる。」

ということである。すなわち、統治governmentも一般的には国家的な諸事項matters of stateに含まれているが、天皇が関与できるのはあくまでもこの憲法に規定される国家的な諸事項だけに制限される、ということである。

つまり、アメリカ「解放軍」(カギ括弧を付けさせる感性はさしあたりはコミンフォルムに由来している)によって、大日本帝国ヲ統治セシ万世一系・神聖不可侵ノ天皇は、その統治権soverigntyを剥奪され、それを日本国民とその選択した国会および内閣へと譲渡させられたという歴史的事実が、「この憲法の定める国事に関する行為のみ」という文言には刻印されているのである。

ところが、現行の訳文憲法の表現では、あたかも「国事行為」と「国政」=政治行為とがまったく別のものであるかのように読めてしまうのである。そのこともあって、現にそういう通念が流布することとなり、60歳代と思われる宮内庁長官にも、その下の新聞論説委員にも、私のようなものにも浸潤してきたのである。

しかし、これは単に訳文上の問題だけから流布・定着してきたものとは思われない。そのような勘違いが流布・定着するには、それを受け入れる土壌というものがなければならない。

そこにあったのは、岸信介~あべ・アホウに連なる自民党極右派勢力が内閣を構成しているようなときに、「内閣の助言と承認」によって「政治行為」をされてはかなわない、それではそのまま戦前回帰となってしまうという、自民党保守本流とその国民的支持基盤の本能的な感覚だったのである。
だからこそ、「国事行為」をたんなる儀礼行為にまで縮減し、天皇は儀礼行為にのみ携わるべく神棚に祭り上げ、触らぬ神に祟りなしとしてきたのであった。

つまりは、岸信介~あべ・アホウに連なる自民党極右派勢力による「内閣の助言と承認」によって天皇が「政治行為」をさせられる、極右勢力に天皇が政治利用される、そういう事態を禁忌化するという意味合いも確かにそこにはあったのである。

だが、それだけではない。他方では、「この憲法の定める国事に関する行為のみ」という文言に刻印されたる天皇主権の剥奪という「父親殺し」からの遁走という日本国民の心性に根ざした問題がある。

実際、敗戦後すぐに、津田左右吉をはじめとする穏健保守派の学者、言論家たちが、日本の天皇というものはそもそも儀礼行為にのみ携わる象徴的な権威(=共同幻想!)であるのが常態なのであって、明治以降の軍服を着た近代天皇制のほうが異質だったのだ、だから、戦後憲法の「象徴天皇制」は天皇制の常態に回帰するものなのだ、とする論理を主張しはじめた。この論法は軍国主義はいやだが皇室は尊いという戦後日本人の心性に広く深く受け入れられ、またたく間に通念となって定着していったのである。

もちろん、実際の日本の歴史においては、天皇・上皇権力が形骸化=象徴化するのは後鳥羽上皇の承久の変をへて後醍醐天皇の南朝都落ちによる北朝=傀儡天皇制の成立というプロセスによったのであって、それ以前は、神話的起源において神権制であった段階から次第に世俗権力化--ヤマトタケル、神功皇后の軍事的な英雄伝説時代から古代的統治機構の整備への諸段階を経ていったという点では、普通の王権となんら異なるところなどなかったのである。特異だったのは、北朝以降の傀儡天皇制の状態が異常に長く続いたことと、江戸期の社会的な教養化をつうじて観念的・イデオロギー的上部構造の内部において正統性の源泉として復活しついには王政復古へと至ったという近世・近代における歴史・地理的な特殊性である。

そうした史実から目をそらして傀儡天皇制こそが古来、天皇制の常態だなどというのであるから、本当のところは随分と不敬、失敬な話だったのであるが、敗戦後の天皇制存続の危機においてはそれどころではなかったというのが実情であったのだろう。

こうして、アメリカ「解放軍」が、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」の一環として、日本の「現在及び将来の国民に対し」(第九十七条【基本的人権の本質】)付与したところの、第一章天皇条項は、日本国民自身の心性において、ものの見事に形骸化=象徴化されてきたのであった。

天皇は万世一系、天壌無窮、いつの世も象徴天皇だったのであって、世に新しきことは何もなし、といった具合である。

かくして象徴天皇制とは、「主権の存する日本国民」の「主権の存する日本国民」による、自己形骸化=象徴化の産物であり、主権在民の自己脱構築にほかならなかったわけである。

そうはいっても、保守本流の政治家であったはずの小沢幹事長が、アメリカ「解放軍」が提起した憲法の条文を文字通りに読んでみろと唐突に突きつけたことは、やはり突飛な印象を拭えないのも正直なところである。同じように、憲法九条を文字通りに読んでみろと突如として言い出したらどうなるのであろうかということを想像してみると、

----自衛隊をこのまま持ち続けるのか、それとも憲法九条二項を改訂するのか、どちらかしかないだろうが、とぶっきらぼうに言い放つ情景が浮かんでこないわけでもない。

戦後日本の保守本流が依存してきたあらゆる曖昧さを粉砕することが小沢一郎の意志であることは明白であるが、それがパンドラの箱を半開きにさせかねないという恐怖感を少なからぬ人々に与えることもまた否定しがたいところである。
 

小沢一郎と憲法

 投稿者:高望み  投稿日:2009年12月17日(木)02時15分23秒
編集済
  今のところの鳩山民主党政権は、一部メディアと「野党自民党」(笑)の空回りした批判や亀井静香大臣の悪のり気味のパフォーマンスにもかかわらず想定外のことは特段ない。強いていえば、鳩山首相の「憎みきれないろくでなし」ぶりぐらいであろう。
  傷つけ合うのが嫌いだからと
  ずるずるみんなをひきずって
  最後にあなたはどうするつもり♪
たしかに、トップがあんな調子では下のもの、周りのもの、交渉相手側みんなが振り回されて怒り出すのも当然だが、案外あれも北朝鮮の金正日流の外交手法に学んでいるのかもしれない。

そんな中で、目から鱗だったのが小沢一郎・民主党幹事長による記者会見であった。大政治家としてはいささか大人げなげなスタイルながら、そこで披瀝された日本国憲法の天皇条項に関する講義は目から鱗だった。

もともと自分は法学的思考回路が苦手で、日本国憲法を読み込んだことなどなかったので、なんとなく「戦後憲法では象徴天皇は政治に関与できず、「国事行為」にしか関与してはいけないことになっている」という風に思い込んできた。それゆえ、ニュースでの小沢発言には、当初、これは宮内庁長官のほうが正論だろうという違和感をもった。大方の新聞論調もそういう方向だったのではないか。

しかし、改めて憲法の条文を読んでみると、確かに小沢幹事長のいうとおりである。

第四条 1 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

この憲法条文が規定しているのは、天皇が関与してよいのは「この憲法の定める国事に関する行為のみ」だということである。ここでは、「国事行為」と政治とはべつのことではない。政治=国事行為である。考えてみれば「国事犯」といえば「政治犯」なのだから、天皇の国事行為といっても政治行為にほかならない。

それがいつの間にか、「国事行為」は政治行為とは別のものだとされてしまっていた。現にそういう通念が流布しており、60歳代と思われる宮内庁長官にも、その下の新聞論説委員にも、私のようなものにも浸潤してきたのである。

これはどういうことであろうか。実際のところは第一章天皇にはどのようなことが書かれていたのであろうか。そのニュアンスをはっきりさせるコトバをカタカナ等で補いながら読み返すと、次のように書いてある。

<天皇は、日本国の象徴デアルニスギズ日本国民統合の象徴ニスギナイノであつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基くモノトサレタ。>第一条【天皇の地位・国民主権】
<天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認ツマリハ統制下ニアルコトを必要とし、内閣が、国民ニ対シテその責任を負ふ。>第三条【天皇の国事行為と内閣の責任】
<天皇は、この憲法の定める国事に関する行為--ツマリ政治行為ノミ--を行ひウルノデアッテ、国政に関する権能を有しないトイフカ剥奪サレ禁止サレル。>第四条1【天皇の権能の限界】

このように、アメリカ「解放軍」(カギ括弧を付けさせる意識はさしあたりはコミンフォルムに由来している)によって、大日本帝国を統治する万世一系・神聖不可侵の天皇はその統治権を剥奪され、それを日本国民とその選択した国会および内閣へと譲渡させられたという歴史的事実が、これらの条文には刻印されているのである。

ところが、敗戦後すぐに、津田左右吉をはじめとする穏健保守派の学者、言論家たちが、日本の天皇というものはそもそも象徴的な権威(=共同幻想!)であるのが常態なのであって、明治以降の近代天皇制のほうが異質だったのだ、だから、戦後憲法の「象徴天皇制」は天皇制の常態に回帰するものなのだ、とする論理を主張しはじめた。この論法は軍国主義はいやだが皇室は尊いという戦後日本人の心性に広く深く受け入れられ、またたく間に通念となって定着していったのである。

もちろん、実際の日本の歴史においては、天皇・上皇権力が形骸化=象徴化するのは後鳥羽上皇の承久の変をへて後醍醐天皇の南朝都落ちによる北朝=傀儡天皇制の成立というプロセスによったのであって、それ以前は、神話的起源において神権制であった段階から次第に世俗権力化--ヤマトタケル、神功皇后の軍事的な英雄伝説時代から古代的統治機構の整備への諸段階を経ていったという点では、普通の王権となんら異なるところなどなかったのである。特異だったのは、北朝以降の傀儡天皇制の状態が異常に長く続いたことと、江戸期の社会的な教養化をつうじて観念的・イデオロギー的上部構造の内部において正統性の源泉として復活しついには王政復古へと至ったという近世・近代における歴史・地理的な特殊性である。

そうした史実から目をそらして傀儡天皇制こそが古来、天皇制の常態だなどというのであるから、本当のところは随分と不敬、失敬な話だったのであるが、敗戦後の天皇制存続の危機においてはそれどころではなかったというのが実情であったのだろう。

こうして、アメリカ「解放軍」が、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」の一環として、「現在及び将来の国民に対し」(第九十七条【基本的人権の本質】)付与したところの、第一章天皇条項は、日本国民自身の心性において、ものの見事に形骸化=象徴化されてきたのであった。

象徴天皇制とは「主権の存する日本国民」の、「主権の存する日本国民」による、自己形骸化=象徴化の産物であり、主権在民の自己脱構築にほかならなかったのである。

そうはいっても、保守本流の政治家であったはずの小沢幹事長が、アメリカ「解放軍」が提起した憲法の条文を文字通りに読んでみろと唐突に突きつけたことは、やはり突飛な印象を拭えないのも正直なところである。同じように、憲法九条を文字通りに読んでみろと突如として言い出したらどうなるのであろうかということを想像してみると、

----自衛隊をこのまま持ち続けるのか、それとも憲法九条二項を改訂するのか、どちらかしかないだろうが、と質問する記者に対して吐き捨てるように言い放つ情景が浮かんでこないわけでもない。
 

ちきゅう座

 投稿者:香花  投稿日:2009年12月17日(木)01時21分53秒
  ここのコメントの欄で、三上さんの時評が読めますね。

http://chikyuza.net/

 

民主党政権に対する愚痴はない

 投稿者:高望み  投稿日:2009年11月14日(土)17時24分55秒
編集済
  この掲示板は2003年4月に「過渡期掲示板」としてなんとなしに開始したが、今にして思えば時あたかも、日本社会が歴史上ときたま見舞われる狂気と痴呆へとのめり込みはじめた時期にあたっていた。そのため、職場の身辺での次から次へと起こる崩落現象への愚痴と、小泉政権によるイラク戦争参戦に端を発したイラク人質事件をめぐる「自己責任」騒動をはじめとした日本社会と自民党政治の崩落現象への愚痴のための日記帳となっていった。

以来、2005年10月に名称を「情況随感掲示板」としてからは、よりいっそう日本やアメリカの政治経済情況にたいする愚痴の場として使ってきた。

しかし、2009年9月に劣化に劣化を重ねた自民党政権は遂に崩壊し、民主党・鳩山政権に交代してからは、期待も期待はずれもごく当たり前の範疇に収まるようになっており、特段、愚痴をこぼす素人談義の動機付けもなくなってしまった。それだけ、ブッシュ・小泉以降の日米政治経済は<体制外>的なところまで逸脱していたということだ。オバマや鳩山の民主党政権のあれこれについて論評することは、<体制内>的な政治評論、経済評論の領域である。

マスコミは相変わらず意味不明に民主党政権の挙げ足取りをしているが、最後の自民党首相となったアホウ首相がぎりぎりまで解散・総選挙を引き延ばしたので、今年度にできることは初めからきわめて限られているのはわかりきったことである。そうでなくても、やらなければならない「改革」は一年や二年でできるような次元のことではない。それを政権発足から何週間とか何ヶ月で停滞しているとかブレているとか、挙げ足取るにも芸がなさ過ぎるというものだ。

懸念の安保・外交にしても、そもそも米中接近が世界政治の焦点になっている今日、日米関係、日中関係の戦略的方向性の再編も、そこに定位した沖縄基地再編問題も、時間を引き延ばせば引き延ばすほどいいに決まっている。そもそも、沖縄に米軍が基地をもたなければならない必要性が消失するからである。

オバマ政権は、現在、米国民の過半を占めてきたタカ派世論が退潮しつつあるのを慎重に見極めようとしているものと思われる。トップダウンではなく、草の根の世論が変容することによって共和党極右派の暴走を許してきた構図が転換するかどうかが、アフガニスタン戦争をどのように収束できるかの焦点だからだ。

<体制内>にあれば、経済政策、行政改革、政治改革、等々、考えなければならない難問は山のようにある。<体制外>に頭を置いておけば、どうしたら百年後に日本社会にも中道左派勢力が政党政治の一翼を担えるに至るのかを気長に考えていればよいので気が楽というものだ。
 

>>ご無沙汰です

 投稿者:高望み  投稿日:2009年 9月28日(月)10時29分3秒
編集済
  香花さん

アルチュール・ランボーのように来年からアフリカに滞在とのこと、世界雄飛ぶりに感服いたします。
わたしの場合、アフリカ的段階とアジア的段階以降との差異は、大脳のシナプス回路に「理性」という形式が形成される文化的遺伝子が生成・定着しているかいないかではないかと思っています。アフリカ的段階とアジア的段階の段差はいわばゼロと1の段差で、それは、アジア的段階とアングロサクソン的段階の段差がどんなに大きいとしても、それよりもはるかに大きいのではないかと思っています。

日本は奈良時代や江戸時代に一生懸命、ユーラシア大陸のアジア的段階の文明を摂取したのですが、支配階級の上澄みをとらえたに過ぎなかったと思えてなりません。明治時代以降、欧米からゲルマン的、アングロサクソン的段階の文明を摂取してきましたが、それについても同様ですね。

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政党がどこまで本気でマニフェストなど書いている
か分ったものでもないし、何年もそんなものにこだわる必要はないと、
国民も思っているのではないでしょうか。
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香花さんも年代的に、長年の自民党政治によって政治的無関心が擦り込まれてしまっているクチのようですね。しかし、末期自民党は1970-80年代の自民党からすると信じられないほどに劣化して、個体的レベルでも明らかにおかしいあべチャンとかアホウ総理を排出するほど基地外化していたので、この政権交代によって改善される度合いは相当のものになると期待しています。出発地点があまりに低いマイナス地点なのですから。

財源がどうのとかから始まって、ダムだの高速道路の無料化だのと相変わらずマスゴミは意味不明に諸外国並みでは当たり前の諸政策に対してネガティブ・キャンペーンの洗脳攻勢を仕掛けています。われわれは、障害者自立支援法だの製造業派遣解禁の労働者派遣法改定だの国立大学法人法だのイラク戦争参戦だのといったことが小泉政権で強行されつつあった2003年春に、突如としてワイドショーが来る日も来る日も、白布のパナウェーブ一色に塗りつぶされたという歴史的事実を決して忘れるべきではありませんね。

でも、亀井静香大臣の「平成の徳政令」だけは金融政策として信じがたい暴挙です。彼は1950年代に東大経済学部でマルクス経済学を学んだそうですが、どうやら共産党系の講座派マルクス主義経済学を学んだのでしょうね。宇野原論で信用論を学んでいれば、いくら何でもこれはありえません。鳩山政権にとっては当面、最大の試練でしょうね。
 

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