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ばればれの国策捜査

 投稿者:高望み  投稿日:2009年 3月 4日(水)01時46分41秒
編集済
  重要文化財よりも自分タチだけの懐に入るアブク銭のほうが大事という考えを、まったく疑念の余地のない通念のように公の場で披瀝する財界ブルジョアジーの「民度」が、この国のすべてを表している。
次にくるのは? その次にくるのは? そのまた次にくるのは?
そんなこともわからないで、金の亡者であることを世界最先端の生き方だと誇りに思っているような連中と、低い偏差値大学出のゲシュタポ、KGBまがいの陰謀政治家たちが、いまや万人周知の陰謀ごっこに励んでいる。人格が悪くて認知がゆがんでいるのと、頭が悪くて先が見通せないのが暴力装置を独占したらお終いだ。
もう、万人はすべてわかってしまっているのだが、北朝鮮の住人と同じように、もはやどうすることもできないところまで追いつめられてしまっているのだということもわかってしまっているという次第である。
 
 

抑圧された水戸学の回帰

 投稿者:高望み  投稿日:2009年 3月 3日(火)01時55分21秒
編集済
  >>あと、幕閣や日本人一般が、阿片戦争を契機に中国崇拝を止めた、とのことですが、
中国に対して、あれくらいの暴力は、史上度々あったんではないでしょうか。
イギリスの攻勢を特別視するのは、私らが、歴史を知ってる後世の人間やからではないでしょうか。

 なるほどその通りで、だから、天保期から文久・元治年間までの水戸学派などは、清朝なんて異民族支配で内部的に弱体だったから惨敗したとしても、モンゴルの時も神風が吹いたしこの神国日本が負けるはずがない、ついでにボロ負けした清朝には「天朝」の称号はふさわしくないので本朝が頂いてしまえ(さらには秀吉同様にいずれは日本が中国を征服してしまえ……)、とばかりに意気軒昂だったんでしょうねえ。
 天保期から文久・元治年間までの水戸学派を中心とした閉ざされた認知構造では、まだまだイギリスも南蛮・紅毛のたぐいでモンゴルと同様の侵略者という程度の認識だったのかもしれません。(モンゴル帝国のとらえ方にしても、近年では高度な組織体制を備えた世界帝国だったのであり、鎌倉幕府のほうが問答無用で外交使節の首を刎ねたりしてはるかに野蛮人だったことが明らかにされていますが。)

 いずれにせよ、アヘン戦争で日本>中国という価値転倒は起きたでしょう。中国崇拝といっても、支配層と兵学的な知識層にとっては、文明論的なもの以上に軍事的な強大さへの恐れが基本的なものだったのでしょうから。中国は弱くてやられたが神国日本は大丈夫だという思い込みが、一部の開明派を除いてはとらえていた時代には、そのことで自動的にジャパン・アズ・ナンバーワンだと自己確信してしまえたわけです。ただし、あくまでも幕府の最高首脳部と開明的知識層を除いてです。これは、徳川幕府による北朝鮮なみの厳しい情報統制が招いた自業自得でもありました。

 神国日本とは、中国的儒教に対する神道的儒教=天皇制を奉ずる国であるということは、たんに中国と日本はそれぞれ固有の祭祀と伝統をもっているという程度の主張でしたが、軍事バランスの認識として、神道的儒教=天皇制を奉ずる神国日本のほうが小国ながら強いのだという強力な自己主張、すなわち「尊皇攘夷」が、水戸学を中心として巻き起こってくる。
 日本がワン・オブ・ゼムの国ではなく、中国よりも強く、イギリスよりも強いのは神道的儒教=天皇制を奉ずる神国だからだ、という論理構造が水戸学のすべてですから、ともかく、なーんだ清国なんて弱いんだ、という認識が触媒となったであろうというわけです。

 ところが、元治年間に馬関戦争、薩英戦争でコテンパンにやられたことで、神国日本の夜郎自大が瞬時に崩壊し、攘夷派の閉ざされていた認知構造がコロッと変わってしまったわけですよね。
 そうすると、その瞬間から、日本(この時点では西南雄藩だけですが)は宗主国(文明の正統性)を中華文明から西洋文明へと乗り換えたということになります。

 日本>中国という価値転倒は、西洋>日本>中国という価値再編と連動的だったわけです。つまり、欧化政策の進展度で、いいかえれば西洋との距離の近さによって日本>中国という価値序列になるという時代への転変ですね。

 今日の構造カイカク詐欺とまったく同じ手法で、尊皇攘夷、尊皇攘夷と叫んでいた薩長が、尊皇を掲げる錦の御旗のもとに時の勢いを利用し、いっきに「開国独裁」政権を樹立してしまったわけです。嘘を嘘ではなく一時の方便だと自分自身をも言いくるめ続けるためには、ますます攘夷にかえて尊皇が絶対化されなければならなくなります。

 こうして、天皇制を奉ずる神国日本のほうが小国ながら中国などよりも偉いのは、いちはやく欧化政策を推し進めたからである、ということになるわけです。しかし、やがて抑圧されたる攘夷(水戸学)の回帰、として昭和期の超国家主義が到来することになります。これは、会津をはじめとする奥羽越諸藩を中心に、尊皇ジョウイ詐欺によって騙し討ちにされた人々の孫の代によって引き起こされた現象だったという側面が無視できません。
 

おもいを幕末に馳せる

 投稿者:臨夏メール  投稿日:2009年 2月27日(金)09時19分6秒
  ご丁寧なレス、おおきにさんですw

わたしは、幕末に「日本>中国」觀が急に沸騰してきた、
というのも、「学問」というよりは、「人間」「身体」「遺伝子(笑)」レベルのように捉えてしまいます。

兄さんの立論を見ていて、司馬遼太郎を思い出しました。
司馬なら、「その土俗的な感情がイデオロギーになるには、なにか「触媒」が必要」や、
みたいに言う気がします。
政治的・思想的触媒による「契機付け、景気付け」はやはり要るもんなんでしょうか。

たしかに、巷間で、腕っ節の強そうな男が「ちゃんちゃんボーズ!」と叫ぶだけでは「政治」になりませんね。
しかし、これは、ウロボロスの蛇であり、「チャンチャンぼうず!」が無いと、政治にもならんのですよね。


あと、幕閣や日本人一般が、阿片戦争を契機に中国崇拝を止めた、とのことですが、
中国に対して、あれくらいの暴力は、史上度々あったんではないでしょうか。
イギリスの攻勢を特別視するのは、私らが、歴史を知ってる後世の人間やからではないでしょうか。

一応近代の中国侵略は、「半殖民地」くらいで済みましたが、モンゴルのときは、まるごとやられた訳ですし、
五胡十六国もそうですし、
これも「尊王攘夷」(幕末のネタ元ですねw)の、宋代における遼・金の南下、
更に、それこそ明清の交代かて、本質的には同じじゃないですか。

当時の、清朝官僚とかは、阿片戦争を見てても、
「また夷狄が来たな」とか、案外慣れっこな気分で見てたんではないか、と思います。
そやから西太后も北洋艦隊製造費を平気でがめて、頤和園とかを改修したのではないか。
そんなことをたまに考えています。
 

「忠義遺伝子」

 投稿者:高望み  投稿日:2009年 2月27日(金)01時57分22秒
  >「忠義遺伝子」とか、あってもおかしくないような。

 楠木一族や新田一族でサンプル調査ですか(笑
 

小華主義 プラスα

 投稿者:高望み  投稿日:2009年 2月27日(金)01時10分4秒
編集済
  >>「わしのクニ(どんな共同体でも)が一番や」とは、容易に考えるようになるもんや思います。

 もちろん。ただ、それだけじゃ小学生低学年止まりでしょ、ということですよ。世界地図をはじめてみたとき、日本ってこんなに小さい国なんだ、というのはすべての日本人が経験する瞬間でしょう。そういうことは日本だけでなく、ほとんどの国でもそうでしょう。

>>もっと分かりやすいのは朝鮮で、宗主国の明朝が滅んだあと、
「中華の正統は滅んだ、聖人の道を継ぐものは、もはや我々朝鮮国のみ」というた考え、
所謂「小華主義」を持つに至ります。

 そうそう、三年ほど前、山内弘一『朝鮮からみた華夷思想』世界史リフレット67、山川出版社、というのをみたことがありましたがアタマをスルーしてましたね。でも、現実には清朝の属国だったわけなので、あくまでも観念的な儒学界の中だけでの自慰ですよね。

 興味深いのは、明朝滅亡後、朝鮮の儒学界ではかなりそういう論調が前面に出てきたのでしょうが、まだ日本ではそうでもないのではないですか。ちゃんと調べたわけではないですが、熊沢蕃山、山崎闇齋、山鹿素行だけが変わり種で、まだまだ新来の朱子学、陽明学を仏教にかえてありがたがっていたというのが江戸前期~中期の儒学者たちの間では主流ではないですかね。

 足利義満までは朝貢していたのに、中国<日本となる転機はいくつかあって、第一は、豊臣秀吉の大明征伐の企図でした。こんなのがなんで突然登場したのか、いまだベールに包まれていますが、秀吉は、明朝も李朝もガタガタで終わっているとする情報網をもっていて、それにもとづいて邪望を逞しうしたとしか考えられませんよね。

 これに対して、明朝からの亡命朱子学者・朱舜水を保護したのが水戸光圀で、明朝復興のために大陸に出兵すべきか否かは当時の幕閣における重要な議題でした。この朱舜水は、水戸黄門に日本ではじめてラーメンを食べさせただけではなく、楠木正成こそ日本でいちばん偉い人物だという価値観を教え、それが南朝イデオロギーとして江戸時代をつうじて流布していくこととなりました。でも、そこにはまだ中国<日本という序列意識の転倒はなさそうですね。

 熊沢蕃山というのは、これも水戸藩に縁がありましたが、陽明学者というよりも岡山・池田藩の経世家として名をなした人物で、つまり実践家でした。また、山鹿素行は兵学者。だから、この二人が観念的に儒教・聖人の祖国尊しとならなかったのは、リアルに当時、明朝がツングースに滅ぼされつつある大陸情勢を見ていたからだと思えます。もう、日本のほうがましだし、というとらえ方がなされたのではないか。他方、山崎闇齋のばあいはまだよく知りません。いちばん、狂信的にプリミティブな天皇信仰を儒教の祖先意志崇拝に結びつけただけなのかどうか。

 中国<日本という序列意識の転倒にとって決定的なのはやはり、アヘン戦争で清朝がぼろ負けしたことで、それで日本の幕藩支配層は日本なんかひとたまりもないと戦慄したわけですが、それと同時に、もう中国は世界帝国の中心=天朝の地位から転がり落ちたという認識も出てきたと推察しています。天皇のことを「天朝」という言い方は幕末の流行のようですが、水戸学あたりで、清朝がその資格を失ったのだから、日本の天皇こそが「天朝」だと言い始めたのが幕末の志士の間で流行語になったのではないかな、と仮説を抱いてます。

 「天朝」の語源はともかくとして、アヘン戦争を境にして、中国>日本という序列意識など吹き飛んでしまい、中国よりも強大な洋夷に対して絶海の孤島・日本がいかに孤軍奮闘、立ち向かうのか、という意識へと、当時の支配層、下級武士層、豪農・豪商層の知識圏=公共圏の世論が急転換したのであろうと思います。

 そして、ダメ押しになったのが日清戦争でしょうね。ここからいきなり「チャンコロ」ですからね。

 こういう倭人の現金さというのは、ちょっと凄いというかうすら寒いものがあって、アメリカに対する掌の返し方というのも、昭和二十年の時と、それからここしばらくのうちに起こるであろうことと、これはまあ見ものなんだろうなと思います。

 いずれにせよ、たんに自分の親だから、御本家だから、酋長様だから、うやまうというだけでは、強烈なイデオロギーにはならなかったわけでしょう。いくら御先祖様が父方はお日様、母方は鰐という尊貴さであったとしても、そのてはアフリカにだってオセアニアにだってどこにだっている酋長のワン・オブ・ゼムだよなあ~、となって終わりです。強大なる中国よりも、洋夷よりも、もっともっと強いんだぞ~(→たぶん強い→いやいつかは強くなれる……)という意識と結びついてはじめて、「俺っちの王様はなあ、いいかあ、中国も洋夷も照らしている、あのお日様の子孫なんだぞ~」という、小学生低学年レベル丸出しの自慢話から、いっきに七生報国まで感情を昂揚させることができたわけでしょう。
 

小華主義

 投稿者:臨夏メール  投稿日:2009年 2月26日(木)00時15分51秒
  >なぜ日本>中国、神道>儒教という価値転倒
>直接的には、自分の主君は日本の大名、将軍、天皇なのだから、ということであったろうが、それだけでは理屈としては弱い。それだけでは自分の親に孝養を尽くすのは当たり前といっているにすぎず、そこから自分の親こそが世界一だという論理が導出できるわけではないからである。


ここですが、これは「人間性」の単純な一般形態ということで分析可能なんやないでしょうか。
人間は、たしかに「うちの親は世界一や」とはなかなか考えませんが、
「わしのクニ(どんな共同体でも)が一番や」とは、容易に考えるようになるもんや思います。

日本史でも、「小中華主義」というて、「そもそも、日本には、『日本世界一』と考えるような基盤があった」と言われて居ります。

もっと分かりやすいのは朝鮮で、宗主国の明朝が滅んだあと、兄さんも言わはるツングースに天下を取られた形になりました。
これ以降、世界のなかでもとりわけ観念的政治意識の強い朝鮮の儒者たちは、
「中華の正統は滅んだ、聖人の道を継ぐものは、もはや我々朝鮮国のみ」というた考え、
所謂「小華主義」を持つに至ります。

それこそ、朝鮮末期の大韓帝国の背景イデオロギーなんでしょうね。
日本も、朝鮮ほど純粋ではないにせよ、「自分=一番」と、転がって行ったんでしょう。

この種の発想→体制の転換は、世界史で普遍的に見られる、とのことらしいです。
「霊長学」の見解では、「チンパンジー以来、人類はそういう傾向を持っている」そうです(笑
最近は、なんでも「遺伝子」で、文化研究が肌寒いですが、「忠義遺伝子」とか、あってもおかしくないような。
 

これはいかん~

 投稿者:臨夏メール  投稿日:2009年 2月25日(水)23時50分42秒
  すでに、

>ご冥福  投稿者:高望み  投稿日:2009年 1月30日(金)01時19分26秒

>一昨日の朝、降旗節雄氏が急逝された。

との、高望みさんの報告がありますね!
やれやれ、恥ずかしい~(^^;

わたしに情報教えた香具師、しばいてきます、、
て言い訳ですが、、、、、

すみませんです~
 

降旗節雄氏逝去

 投稿者:臨夏メール  投稿日:2009年 2月25日(水)21時21分2秒
  なんか物凄い極右ですね~!
「選挙するな」やて!!!?(爆笑

どうもここ数年、二世三世議員も目に付きます。
一般大衆も右傾化してるし、左翼としてふんばりどころなんやな、と思てます。
古いはなしかも知れませんが、第二次大戦まえの欧州での、
世の右傾化と左翼の無気力による破滅の歴史を見てると、到底人ごとには思えませぬ。

この不況、どこまで墜ちて行くんでしょうか?
「100年に一度の大不況」とか新聞はぬかしてますが、
資本主義の歴史自体、200年そこらしかないですがな(^^;
つまり、29年の恐慌以来、ということですか。

さて、ながなが駄弁済みません、
降旗節雄先生の訃報を聞きました。

センセイ、とか書きましたが、わたしは、氏の高名をおよび聞くくらいでして、
著作には手も触れておりません。
兄さんの著作で、たびたびお名前を拝見する御仁のようなので、敢えてここに書き付けた次第です。

合掌
 

「10年くらい選挙を凍結し、挙国一致内閣を」!

 投稿者:高望み  投稿日:2009年 2月25日(水)12時19分21秒
  ヒトラーともあろうものが、こともあろうにスターリンなどと独ソ不可侵条約を結んだことに狼狽し、「ヨーロッパ情勢不可解なり」と表明して総辞職した極右・平沼騏一郎首相の嫡系の跡継ぎが、この混濁の世に大政翼賛会を復活せよと大真面目に述べている。たぶん、その十年のうちに有無をいわさず自衛隊を国軍化し、非正規労働者、失業者、ホームレスを中国東北地方やアフガニスタンやソマリア沖にでも送り込めば万事解決、という電波のお告げが脳に到来したのでもあろうか。

2009.2.24 18:59
平沼赳夫・元経済産業相(2007年5月撮影) 平沼赳夫元経済産業相は24日の民放CS番組の収録で、政治体制のあるべき姿について「10年くらい選挙を凍結し、挙国一致内閣をつくり、この難局に立ち向かわないといけない」と述べ、次期衆院選後は自民、民主両党などによる大連立政権をつくるべきだとの考えを示した。

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090224/plc0902241905012-n1.htm

 

神儒一致についての覚書

 投稿者:高望み  投稿日:2009年 2月14日(土)10時56分58秒
編集済
 
 幕末になって、突然のように尊王論が登場して、実体的な権力が何もなかった皇室が政局の台風の目となった。このような現象は、戦後の日本史教科書でも、司馬小説でもまったくわけがわからないものである。しかし、戦前の皇国史観の自己認識や、それそのものの形成史を批判的に研究してきた日本政治思想史の分野では、江戸時代をつうじて起こった変化のプロセスは謎ではない。

 江戸中期には、宝暦事件、明和事件のような尊王論の先駆けとされる竹内式部、山県大弐らへの弾圧事件があり、それに続いて、高山彦九郎のような人物の諸国遊歴、京の三条大橋での皇居遙拝、謎の自死といったことが、当時の知識階級に衝撃を与えている。

 また、後期水戸学といわれる藤田幽谷などがあらわれ、読書階級の間で南朝正統論にもとづく皇国史観が影響力を高めていく。

 じつは国学というのは、こういった動向と同時並行的に発展してきたものであった。尊王論を先導したのは、朱子学的な大義名分論、歴史論のほうであったようだ。


 江戸中期の尊王論は、江戸前期にその起源を遡ることができる。徳川家は林羅山を重用したことから、全国の諸大名の間でも儒官を召し抱えることが行われるようになっていった。そのため、江戸時代になって、突如として、朱子学の興隆が始まったわけである。この朱子学が重んじるのが大義名分論で、ここから、将軍よりも天皇のほうが偉いんだという観念が、次第に知識階級化していった武士階級の間に再認識されるようになっていった。

 むろん、これぐらいのことは、戦後日本史教科書や司馬小説からも読み取れることである。

 しかし、このような江戸前期における朱子学の興隆は、じつは神仏分離、廃仏毀釈の思想を早い段階から孕んでいたものであった。このことは、戦後日本史教科書や司馬小説からだけでは読み取ることは困難である。

 儒者たちは、仏教を排撃し、神仏分離を唱え、「神儒一致」を唱えたのであった。ここでいう神道とは、祖先祭祀崇拝のことであるが、本朝ではより具体的には天皇を中心とする祭祀体系を尊崇する皇道であるとされた。

 このような「神儒一致」は、儒教が仏教に取って代わろうとする主張であり、儒教の立場からすれば当然のものであった。また、儒教的な忠孝の対象が、日本では封建領主、将軍、天皇の秩序体系となるのも当然であった。

 したがって、「神儒一致」という思想そのものは、江戸前期における林羅山、伊藤仁齋、中江藤樹、熊沢蕃山、山崎闇齋、山鹿素行、等々の朱子学者、陽明学者たちに共通していたものであり、なんら特定の思想家に特異なものではなかったといわれる。


 だが、「神儒一致」といっても、儒学者たちにとっては、普通なら、中国>日本であり、儒教>神道という価値序列となるはずである。有名なのは、江戸中期になるが、荻生徂徠などは、江戸市中で少しでも西に引っ越した知人に、聖人の国に近づいてめでたいことだと祝いの言葉を述べたとか、物部氏の末裔ということから「物茂卿」と漢風の名乗りをしていたとかという話がある。

 ところが、それらの中に、日本>中国、神道>儒教という価値転倒を行った儒学者たちが存在していた。熊沢蕃山、山崎闇齋、山鹿素行の三者である。

 熊沢蕃山は水戸学に影響を与えたといわれる(熊沢蕃山の外祖父にして養父の熊沢守久は水戸藩祖・頼房に出仕していたが、守久とその嫡男の没後、故郷尾張に帰農することとなったらしい流れの末裔から後の「熊沢天皇」が出た。なお徳川家は南朝の忠臣である新田氏の末流を自任していたがゆえに、家康は北朝天皇家を冷遇し、光圀は楠木正成を顕彰したのではなかったであろうか。)山崎闇齋の崎門学派からは宝暦事件の竹内式部が出た。さらに山鹿素行の山鹿流軍学の兵学者から出発して水戸学の影響も受けて勤皇の思想形成をしたとされるのが吉田松陰である。

 以上のことまでは、すでに日本政治思想史の分野では常識に属している。問題は、江戸前期におけるこれら三者の種子がどのようなものであり、それがどのように散種して江戸中期をへて幕末に全面開花したのかを辿ったのかを解明することであろうが、それは近世日本政治思想史の一大事業に属している。
 しかし、ある意味では、それはすでに作業仮説としての枠組みが定まった上での物量作戦的な作業であろう。


 それに対して、ここであえて仮説を立てたいのは、第一に、なぜ徳川家支配のもとで突如として朱子学が重んじられることとなったのかであり、第二に、熊沢蕃山、山崎闇齋、山鹿素行らがなぜ日本>中国、神道>儒教という価値転倒を行ったのかということである。

 まず、第一の疑問についてである。日本では、欽明天皇以来、千年にわたって仏教が支配的な影響力を持ち続けてきた。戦国時代には一向一揆が猛烈な勢力をもつまでになっていた。徳川家康も、ブレーンとして天台宗系の天海や禅宗系の崇伝を抱えていたことはよく知られている。

 ところが、改めて考えてみると、仏教というのは、それが生まれた国であるインドではすでに滅亡してしまっており、また、中国でも北魏、隋、唐、宋において興隆したものの、すでに衰亡甚だしい状況にあったのである。

 中国では、北魏時代にさかんに西域経由で仏教が伝来し、隋代には天台宗、唐代には法相宗、華厳宗、真言宗、宋代には禅宗が栄えた。日本では、遣唐使の時代になって、順序を違えて法相宗、華厳宗が奈良時代に導入されて東大寺-国分寺の体制となり、平安初期に時代遅れの天台宗がまずもたらされ、踵を接して当時最新の真言宗がもたらされた。さらに、平安後期には浄土教が、鎌倉時代には禅宗が移入されたのであった。

 ところが、中国では、宋代から次第に仏教は衰え、朱子学として集大成されるに至る「宋学」が、仏教的な形而上学的思考を取り込むようになり、仏教に取って代わるようになっていったのであった。

 だが、日本では、北宋が滅んで南宋になっても、鎌倉五山を中心に禅宗の移入に熱心であった。鎌倉幕府が滅んだ後も、足利氏は、尊氏の天竜寺、義満の金閣寺、義政の銀閣寺に象徴されるように、禅宗の保護に熱心であった。京都五山や南禅寺、徳大寺といった巨大禅刹が栄えたのもまさに室町時代のことであった。

 つまり、中国では宋代に禅宗から宋学への知的ヘゲモニーの移動が生じていたのに、日本では元、明の時代になってもせっせと宋代の禅宗の流れを大事にしていたというわけである。

 やがて応仁の乱から150年間の争乱になると、日本では知的活動が停滞せざるをえなかった。その間、細々と京都五山で朱子学の研究が行われていたとされ、ようやく元和偃武(1615年)のあとになって、もと五山僧であった藤原惺窩が徳川家康に門弟の林羅山を推挙することとなったとされる。すなわち、大幅なタイムラグをともなって、ようやく本場中国の知的動向がどっと入ってくるようになったということであろう。それが、徳川時代に入って、突如として朱子学が興隆することとなったとみえる現象の最大の理由であったと考えられる。

 仏教そのものはすでに宋代にピークに達してしまっていたから、その後に現れた宋学や明代の陽明学は、後出しジャンケンのようなもので、江戸時代の儒学を学んだ新興少壮知識人たちにとっては、仏教などというのはじつにくだらない取るに足りない迷信にしか見えなくなっていたのであった。熊沢蕃山などは、仏教を熱心に唱道した聖徳太子と聖武天皇は、その子孫(山背大兄皇子、称謙=孝徳天皇)が途絶えてしまったのも宜なるかなとまでいっている。日本書紀以来の聖徳太子信仰が、西日本には東国人には想像もできないほどいまだに根強くある一方で、江戸前期には、すでにしてこのような聖徳太子批判も存在したのである。

 新進の朱子学徒たちにとっては、キリシタンの教義のほうが仏教よりも優っており、だからこそ、真に恐るべき邪教はキリシタンだと考えられていたのである。

 このようにして、江戸前期においては、いまだ最先端の知識人の間だけであったが、すでに神仏分離、廃仏毀釈は始まっていた。それは、大陸中国における宋代以降の神仏分離、廃仏毀釈の動向が、じつに元、明二代、300年のタイムラグを伴ってのことだったのである。


 第二に、熊沢蕃山、山崎闇齋、山鹿素行らがなぜ日本>中国、神道>儒教という価値転倒を行ったのかということについてである。
 直接的には、自分の主君は日本の大名、将軍、天皇なのだから、ということであったろうが、それだけでは理屈としては弱い。それだけでは自分の親に孝養を尽くすのは当たり前といっているにすぎず、そこから自分の親こそが世界一だという論理が導出できるわけではないからである。

 江戸前期という時代は、国際的にはどういう時代であったか。それは、明朝がツングース民族に滅ぼされたという時代であった。すなわち、一部の朱子学者たちにとっては、宗主国とも慕わしき明朝は、あえなくも滅んでしまったのに対して、本朝の皇室は衰微したりといえども皇統連綿として続いているという現実が重要な意味をもったと考えられるのである。

 だが、このような中国大陸における王朝の盛衰、異民族王朝の出現自体は、三世紀における邪馬台国の女王卑弥呼、五世紀における倭の五王以来、繰り返し経験されてきたことである。唐の衰亡を感知した菅原道真は遣唐使を廃止し、平安中期以降、日本は中国と違う万世一系の神国という思想が芽生えてきていた。そうした思想は、元の時代にあたる日本の南北朝時代において、北畠親房が『神皇正統記』において結晶させたといえる。

 しかし、北畠親房においては、いまだ神仏一如の本地垂迹説に立っており、天竺>本朝、仏教>神道という価値序列にたっていた。そのことが、徳川光圀以降の水戸学においては批判されることになったといわれるが、それは、江戸前期における知的ヘゲモニーの移動からすれば不可解なことではなかったのである。

 熊沢蕃山、山崎闇齋、山鹿素行、あるいは徳川光圀の新しいところは、北畠親房が結晶させた万世一系の神国思想から神仏分離、廃仏毀釈を行い、「神儒一致」へと転換させたことであった。

 しかし、それだけでは、日本>中国、神道>儒教という価値転倒は説明しきれない。そこには、やはり豊臣秀吉による対明侵略戦争の企図にさかのぼって解明されるべき、日本人の対外的な認知構造を解明する必要があるのかもしれない。


 以上二つの仮説をおくことによって、江戸前期に何が起こったのかが見透せるようになるのではないか。ほとんどの儒学者において共通に、北畠親房によって神仏一如の体系として結晶されていたような古代・中世的な万世一系の神国思想が、「神儒一致」による神仏分離、廃仏毀釈によってつくりかえられた。さらに、一部の儒学者の間では、豊臣秀吉とヌルハチの挟撃による明朝の滅亡といった事態とも相まってか、日本>中国、神道>儒教という価値転倒が引き起こされていた。

 ここまでくれば後は、このような知識体系が、素朴な疑問といってもよい現実との矛盾を抱えていたことはみやすいことである。すなわち、宋学的な大義名分論からすれば将軍より天皇のほうが偉いというきわめて単純な形式論理である。

 イデオロギー審級の、知識界の、一隅に生じた些細なヘゲモニーの移動は、江戸時代をつうじて次第に影響力を増していったが、それとともにこのような単純な形式論理と矛盾律が、途轍もなく大きな奔流を生み出すようになっていった。

 尊王論における熊沢蕃山から水戸学、山崎闇齋から竹内式部、山鹿素行から吉田松陰といわれてきたような流れは、イデオロギー審級における構造的な変動の象徴的な表現であったということができるのではないだろうか。

 日本>中国、神道>儒教という価値転倒は、日本、神道という要素に純化してしまえばよいという国学的な思想傾向を生み出すこととなっていった。したがって、国学というのは、純粋に言語学的な研究内容を除けば、その思想内容としてみれば、江戸期儒学からの派生物にすぎなかったということになろう。

 しかし、そうした日本列島におけるイデオロギー審級の動向は、大陸中国において起こった宋代における禅宗から宋学へのヘゲモニー移動の、四百年ものタイムラグを伴った「模写と鏡」にすぎなかったのである。
 

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